RS3-014歴史総合・世界史探究 対策問題

歴史総合B 近代化と私たち(3) 国民国家と明治維新

大日本帝国憲法(1889年発布)の性格として正しいものはどれか。

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正解: 3

正解

天皇が定めて国民に与える欽定憲法だった

この問題のポイント

大日本帝国憲法の性格=欽定憲法を問う。天皇が定めて与える形式と、模範がドイツ(プロイセン)憲法である点の2つで判断できる。

解説

明治政府は国会開設(1890年)を約束したのち、憲法制定の準備を本格化させた。伊藤博文はヨーロッパに渡って憲法を調査し、君主権の強いドイツ(プロイセン)の憲法理論を主に学んで帰国した。
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。その形式は、天皇が定めて臣民に授ける
欽定憲法
である。国民の代表が制定する民定憲法とは対照的であり、この発布の形式自体が天皇主権という憲法の性格を示していた。
内容面では、天皇が統治権を総攬し、陸海軍の統帥権、宣戦・講和、条約締結などの天皇大権には議会が関与できなかった。国民は「臣民」とされ、言論・集会などの自由は法律の範囲内で認められるにとどまった。それでも、アジアで数少ない憲法と議会を持つ立憲国家となった意義は大きい。

ひっかけポイント
「民定憲法」「イギリス型」「アメリカ模範」がそれぞれ定番の誤り。欽定か民定か、模範はドイツか、の2点をまず確認する。臣民の権利は法律の範囲内、も頻出。

選択肢の確認

①「イギリスのような不文憲法だった」
誤り。
条文を持つ成文憲法であり、慣習・判例を中心とするイギリス型の不文憲法ではない。1889年に文書として発布された。

②「アメリカ合衆国憲法を主に模範とした」
誤り。
主な模範は君主権の強いプロイセンなどドイツ系憲法で、人民主権・大統領制のアメリカ合衆国憲法ではない。

③「天皇が定めて国民に与える欽定憲法だった」
正しい。
大日本帝国憲法は天皇が制定して臣民へ与える形式の欽定憲法だった。プロイセン憲法などを参考に、天皇が統治権を総攬すると定めた。

④「国民の代表が制定した民定憲法だった」
誤り。
国民代表の憲法制定議会が作る民定憲法ではなく、天皇大権に基づいて発布された。帝国議会は発布後に開設された。

覚えるポイント

  • 大日本帝国憲法は1889年2月11日発布の欽定憲法
  • 模範は君主権の強いドイツ(プロイセン)憲法、起草は伊藤博文ら
  • 統帥権など天皇大権に議会は関与できず、権利は法律の範囲内

共通テスト攻略

  • 知識を関係で再現:用語を単独で思い出すだけでなく、「いつ・誰が・何のために・何を行い・何が変わったか」を一続きにして選択肢と照合する。
  • 消去の軸を固定:各選択肢を「時期・主体・目的・内容・結果」に分け、一か所でも歴史的対応がずれるものを消す。語句が一部合うだけで選ばない。

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