RN9-028公共・倫理 対策問題

倫理C 日本の思想(2) 鎌倉仏教

次の資料は、ある仏教者の言葉である。「仏道をならうというのは、自己をならうことである。自己をならうというのは、自己を忘れることである。ただひたすら坐禅すること、身心が脱け落ちたその姿が、そのまま悟りにほかならない(要旨)」。この資料に示された考え方の説明として最も適切なものはどれか。

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正解: 1

正解

ひたすら坐禅に打ち込むことを説き、修行は悟りの手段ではなく、修行がそのまま悟りの実現であるとする考え方

この問題のポイント

道元の只管打坐と修証一等の資料読解。修行と悟りを一体とみる考え方を、他の鎌倉仏教や手段的な修行観と区別する。

解説

資料は曹洞宗の開祖道元の『正法眼蔵』の要旨である。道元は宋に渡って禅を学び、ひたすら坐禅に打ち込む只管打坐を説いた。
坐禅において、身体と心へのとらわれが脱け落ちることを身心脱落という。資料の「自己を忘れる」とは、自我への執着を離れ、万物によって自己が明らかにされる境地を指す。
重要なのは、道元にとって坐禅が悟りを得るための手段ではないことである。修行(修)と悟り(証)は一体であり、修行の姿がそのまま悟りの現れであるとする。この考え方を**修証一等(修証一如)**という。
道元は権力に近づかず、越前に永平寺を開いて厳格な修行の生活を貫いた。念仏や題目のような他力・易行と対比される、自力の修行の立場である。

ひっかけポイント
坐禅を悟りの手段とみなす選択肢が定番のひっかけ。修証一等では修行そのものが悟りであり、手段と目的の関係にはない。

選択肢の確認

①「ひたすら坐禅に打ち込むことを説き、修行は悟りの手段ではなく、修行がそのまま悟りの実現であるとする考え方」
正しい。
正解。資料は道元『正法眼蔵』の要旨であり、只管打坐と身心脱落、そして修行がそのまま悟りであるとする修証一等の考え方を示している。

②「ひたすら念仏を唱えれば、どのような人でも阿弥陀仏の力で極楽浄土に往生できるとする考え方」
誤り。
誤答理由: 念仏による極楽往生は法然ら浄土教の教えであり、坐禅そのものに徹する資料の立場とは異なる。

③「法華経の題目を唱えることによって、個人だけでなく国家や社会も救われるとする考え方」
誤り。
誤答理由: 題目による個人と国家の救済は日蓮の主張であり、資料の坐禅中心の思想ではない。

④「坐禅は悟りという目的を達成するための単なる手段であり、悟りを得れば捨ててよいとする考え方」
誤り。
誤答理由: 坐禅を悟りの手段とみなす理解は、修行と悟りを一体とする修証一等の考え方とまさに正反対であり、資料の核心を外している。

覚えるポイント

  • 道元は只管打坐・身心脱落を説いた
  • 修証一等は修行と悟りの一体性
  • 主著『正法眼蔵』、曹洞宗、永平寺

共通テスト攻略

  • 資料を先に観察:題名・年代・作成者・注記・凡例・単位を確認し、資料に直接示された事実と、知識から推測した内容を分ける。
  • 既習事項と接続:資料中の固有名詞・制度・数量の変化を手掛かりに、同時代の政治・社会・対外関係へ結び付ける。資料にないことを印象だけで補わない。
  • 消去の軸を固定:各選択肢を「時期・主体・目的・内容・結果」に分け、一か所でも歴史的対応がずれるものを消す。語句が一部合うだけで選ばない。

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